郡山駅西口再開発
長年の懸案事項で、大手百貨店の出店で一時は決まったかに思えた郡山駅西口再開発。それが、昭和60年に再開発慎重派の市長が当選したことにより事態は一変する。郡山市側の計画の見直しやそれに対する地権者の反発などが繰り返される事態となり、大手百貨店も出店計画を白紙撤回し再開発事業は頓挫。国から交付されていた補助金もこののち8年間ストップすることになってしまった上に、駅前再開発では全国ワースト3の一つ、30万都市の駅前がこんな散々たる姿かと揶揄されるまでになってしまった。西口再開発は郡山経済界からも至上命題だったのだ。
そのとき、匠が動いた!
平成5年「郡山駅西口再開発の推進」を選挙公約の一つに衆議院議員に初当選した根本匠は、すぐに建設省を動かし都市計画事業認可の前にもかかわらず、8年ぶりに補助金の復活を実現。中心市街地活性化法の法案づくりにも中心的な役割を果たしていた根本は、この法律を郡山市の活性化に使おうと思い立ち、市長に準備を急ぐよう助言。郡山市は渡邉保元を室長とする「推進室」を設置し、態勢を整える。政治家として異 例のことだが、計画の原案づくりにも積極的に関わり、郡山市は平成10年の法施行後すぐに法適用の前提となる基本計画を提出。根本は市長の藤森らとともに瓦力建設大臣、堀内光雄経済産業大臣に早期承認を直接要請。その結果、郡山市が法案適用の全国第1号となり、全国のトップを切って郡山の活性化は大きく動き出したのだ。